わたしはそれからやがて東京を出発して、満洲の広い舞台で戦争の活劇を見物する人となったので、その後の劇界の消息は内地から発送してくる新聞紙上で知るのほかはなかった。その新聞も殆んど全紙面を戦争記事で埋めているので、演芸界の出来事などはよく判らなかった。 なんでもその年の九月なかばと覚えている。遼陽戦がわが勝利に終って、わたしが城北の大紙房という村落に舎営している時のことであった。満洲の秋は早いので、もう薄寒い風の吹き出した夕暮に、内地から郵便物が到着したという通知があったので、わたしたちは急いで師団司令部へうけ取りにゆくと、岡本宛の分として五、六通の郵書とひと束の新聞紙とを渡された。新聞は二十日分ほどの嵩があったので、わたしは小脇に引っかかえて来た。宿舎へ帰り着くころには日も暮れ切って、床の下にはこおろぎが寒そうに鳴いている。うす暗い蝋燭のあかりを頼りにして、わたしは先ず故郷の人々から送って来た郵書を読んで、それから新聞紙の束をほどいた。そうして、だんだんに読んで行くうちに、八月八日の紙上に市川左団次が昨七日死去という記事を掲げてあるのを発見した。 「左団次もとうとう死んだか。」CSR Ferocious thief
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